旧芦田宿本陣
長野県宝
慶長六年(1601年)江戸幕府は、大久保十兵衛・彦坂小刑部を中山道に派遣し、道路の整備に併せ次々に「宿駅」を街道の各所に置くように命令したことから、中山道の各所に宿駅が設けられた。
芦田宿は、慶長二年に岩間忠助・土屋右京左衛門によって「芦田宿立駅についての願文」が出され芦田宿が設立した。これは、幕府が交通政策にのりだした慶長六年の4年前にあたり、北佐久では一番先に設立されたことになる。
本陣は、芦田宿設置とともに土屋右京左衛門が仰せつかり明治維新まで代々勤めてきた。現在残っているのは寛政十二年に建て替えられた客殿のみで、往時は高札場・問屋場・酒造蔵などがあった。明治維新までは、公家や諸大名の宿泊・休憩などに使われ、諸大名の宿札がたくさん残されている。
また芦田宿にとって最も大規模な通行は、皇女「和宮」の東下りであると伝えられる。和宮は孝明天皇の皇妹で、文久元年(1861年)公武合体政策の犠牲となり文久二年14代将軍家茂に嫁いだ。この江戸へ下る際、芦田宿を通り本陣で昼食を取ったとされている。昭和六十三年(1988年)に長野県宝に指定された。
地図
所在:立科町大字芦田2610-1
立科町役場庁舎から北西へ200メートル
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更新日:2023年03月31日