おひめさまのお通り
むかしむかし、京のみやこにお住まいの天子さまと、江戸(東京)の将軍さまとのあいだに、争いが長くつづいたときがありました。つきしたがう家来たちもさかんにいくさなどして、世の中がたいへん乱れました。
そこで、両方が仲よくなるようにと考えて、将軍さまのところへ、天子さまのおひめさまを、お嫁にやることになりました。おひめさまは「和宮さま」と申しました。
十六才の和宮さまは、別の人のところへお嫁にいく話があったのですが、とうとう将軍さまのお嫁になることになってしまいました。和宮さまのお気持ちは、どんなに悲しかったことでしょう。
惜しまじな 君と民との ためならば
身は武蔵野の つゆと消ゆとも
このような歌をお作りになって、泣く泣く江戸に向かって花嫁行列は、中山道を下っていくことになります。
文久元年(一八六一年)のことです。もちろん、芦田の宿もお通りになるわけです。しかも、芦田宿では、十一月七日のお昼をめし上がるというおふれが、前もって、芦田宿の本陣に知らされたのであります。
さあ、たいへんです。何千人もの行列の人々、また、その人たちの持ってくるたくさんの荷もつ、芦田宿はじまっていらいの、たいへんなできごとになりました。
「これはえらいことになった。とても私たちの力だけでは考えられない。小諸のとのさまに相だんして、何とかしてもらおう。」
芦田の村人たちは、毎日毎ばん集まっては、ちえをしぼって行列をお迎えする用意を考えなければなりませんでした。どのような用意をしなければならなかったか、次にあげてみましょう。
- 和田宿から八幡宿まで、行列の荷もつなどをはこぶ人や馬を集めること。
- お昼をめし上がる本陣や宿屋のかべやたたみ、しょうじなどを新しくやり直すこと。いたんでいるところはたて直すこと。
- かさとり峠までの道に、すなをしいて平らにしておくこと。川ざらえをしたり、橋をなおしたり、きたないものはかたづけて、道をきれいにそうじすること。
- 花嫁行列がお通りになるときは、けっして見物してはいけない。家のおくに入っていること。
- 用意ができたら、お役人がしらべにきて、よくできていないとやり直されること。
こんなたいへんなことは、芦田宿の村人たちだけではできっこありません。たくさんのお金もかかります。小諸のとのさまも、一生けんめい力をかしました。上田や小県の人びとはもちろん、遠く長野の方からも、この中山道ぞいに、かり出されたそうであります。たぶん、芦田の村も大ぜいの人や馬で、大さわぎだったのかもしれません。
やがて十一月七日、和田宿でお泊りになった和宮さまの行列は、かさとり峠にさしかかります。遠く北の方にけむりをはく浅間山を眺めながら、長い長い旅とこれからのご自分のことなどを思いうかべ、和宮さまは、どんなお気持ちであったでしょう。
かさとりの松なみ木を、花嫁行列がつづきます。やがて行列は芦田の村に入ってきました。和宮さまのおかごが本陣のげんかんに着きます。
本陣の一ばんおくにある、すだれのさがった上段の間にお入りになった和宮さまは、しばらくお休みのあと、お昼ごはんをめし上がったことでしょう。どんなものをめし上がったか献立はわかりませんが、残っている古い書物には、次のような材りょうが書いてあります。
- 塩小鯛
- うなぎ
- 大えび
- 赤貝
- かまぼこ
- 浅草のり
- しいたけ
- いわたけ
- れんこん
- にんじん
- ごぼう
- 長いも
- みそづけ大根
- 玉子など。
それにしても、ぜいたくなお昼ごはんではありませんか。そのころのふつうの人は、みそしるの中へそばの粉をかきまぜたり、少しのお米の中へやさいや麦をまぜてたべたりしていたのですから、これだけの材りょうを集めることは、芦田の村びとにとっては、たいへんなことだったでしょう。
やがて、和宮さまの花嫁行列は芦田宿を出発していきます。おひめさまの乗ったかごが、だんだん小さくなって、茂田井の村に消えていきます。見えなくなっていく和宮さまの行列を見おくりながら、芦田の村びとたちはしばらくのあいだ、ぼう然としていたにちがいありません。今から百三十年も前のお話です。
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更新日:2023年03月31日