百助少年
今から百二十年ばかり前のことです。明治元年六月八日、立科町の山部に、元気のいいひとりの男の子が生まれました。ちょうど明治元年に生まれたので、お父さんとお母さんは、百年も長生きするようにと、その男の子に「百助」という名まえをつけました。
百助は、すくすくとそだち、お父さんからいろいろの勉強をおそわりながら、六才のとき、山部にある誠倫学校(今でもその建物が残っている)へ入学しました。
百助少年は、ずばぬけてよい成せきでした。また、自分でも本気になって勉強しました。それだけではありません。小さいときからいたずらっ子で、負けん気、がんばりやの上に、弱い者の味方でもありました。
友だちが、弱い者をいじめたり、いじわるをしたりしていると、百助少年は、すぐに、弱い者の身がわりになって、いじわるをしているわるい友だちをやっつけるのでした。
さて、百助少年の力がみとめられたのでしょう。十四才のとき、誠倫(せいりん)学校の先生になりました。しかし、百助少年は、もっともっと勉強がしたくてたまりません。山部にいては、思うように勉強ができないので、東京へ行きたいことを親にたのんでみたが許されません。しかたがなく、十九才のとき長野師範学校に入学して、あらためて先生になる勉強をはじめるのです。でも、それにもあきたらず、アメリカへ行こうと考えたこともあったそうです。
そのころ、長野師範学校で勉強した何さつかの本を、山部に住んでいるお友だちに送って、お友だちに役立たせたというお話も残っています。
やがて、師範学校を卒ぎょうして、学校の先生になった百助は、一生けんめいに子どもたちを教えました。そして、蓼科補習学校(今の蓼科高等学校)をさいごに、考えることがあって先生をやめてしまいます。三十四才でした。
それからの百助は、休むひまもなく自分のやりたい仕ごとにとりかかるのです。
- 長野県じゅうのいろいろな石を集めて、石の標本をつくり、学校などへ寄付する。
- まずしい少年たちのために「保科塾」をつくる。
- 長野に図書館をつくり、三千さつの本を寄付する。
- 新しい勉強のしかたを考え出す。
世の中のため、人のために、自分のことはなりふりかまわずに、つぎからつぎへと大仕事をなしとげていきます。もちろん、お金など少しもありません。泊まるところがなくて、
「○○ ○○○○○○○○○○に○」(「こまるこまる とまるにこまる」)
という手紙を、お友だちのところへ出したという話は有名です。
- われ死なば 佐久の山部へ おくるべし
焼いてなりとも 生でなりとも - わらじなし おあしなしには 歩けなし
おまけなしとは おなさけもなし
百助は、たくさんの歌もつくりました。そして、自分のことを「五無斎保科百助」と名づけておりました。どんなに人から変な目で見られても、わる口を言われても、世のため人のために自分の一生をささげた百助は、四十四歳のとき長野の日赤病院でなくなりました。
ゆっくりと しゃばにくらして さておいで
わしはひとあし ちょっとお先へ
つがね寺の境内には、五無斎保科百助をほめたたえた石碑がたっています。
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更新日:2023年03月31日