芦田のとのさま
いま古町の御屋敷によばれるところがありますが、そこに古い堀の跡があります。これは芦田のとのさまのお屋敷のあったあとです。
芦田のとのさまは、名前は依田信蕃(よだしんぱん)といいましたが、芦田城を築いて城主になってから芦田信蕃と呼ぶようになりました。
芦田のとのさまがいた当時の世の中は戦国時代で、くる日もくる日も戦いが続きました。
甲斐の国(山梨県)から武田信玄が信州にせめこんできたときは、武田勢に味方して、芦田のとのさまは百五十騎のさむらいをしたがえて、いつも軍の先頭にたって、みごとなてがらをたてたので、その力はだんだんと大きくなっていきました。
武田がほろんでから、佐久地方は乱れにみだれて、あちらこちらに豪族といって、その地方を支配するさむらいが、ひとりひとり立って、勢力を強めていくようになりましたが、芦田のとのさまは徳川家康にみかたして、佐久地方をおさめるよう命令されました。
苦しい戦いが続いて、芦田のとのさまは、つぎつぎと徳川に反対する城をせめてたいらげていきました。
そして佐久の地方は芦田のとのさまの手で統一されることになったのです。
芦田のとのさまがしたがえた城は、岩村田城、前山城、高瀬城、小田井城、平原城、柏木城、望月城、森山城、耳取城、内山城、田口城と佐久全部におよびました。佐久ばかりではありません。その力は諏訪にまで広がりました。
芦田のとのさまは三十六歳で岩尾城攻めのいくさでうち死しました。そのあとを受けた信蕃の子康国は、父のてがらによって十四歳で十万石の小諸城の城主となり、松平の氏名と家康の康のを徳川家康からもらって、松平康国となりました。
この康国も石倉城の戦いで、二十一歳で戦死してしまいました。城主のなくなったあとは、弟の康貞がのこりましたが、小諸城から松井田城に移され、また、その後、藤岡城にうつされました。
藤岡城にうつってからの十年間、芦田(松平)のとのさまは、郷土の思い出を藤岡の町にのこしていきました。今も城跡は小学校となり、土畳の一部が残され、藤岡芦田城の立看板が立てられて保存されています。
光徳寺、芦田町。芦田地蔵、岩村田町など立科町や佐久にいわれの深い地名が残されています。
在城十年で芦田家は断絶(とりつぶし)になりました。おとりつぶしの原因は康貞のとのさまが、大阪の宿で、徳川家康の家来、小栗三介と囲碁をしていました。三介はどうしても康貞に勝てなかったのです。
くやしまぎれに三介は、康貞に向って、「お前のように、兄のお古をもらって、満足しているような者の、気が知れない。」と、ばかにした言葉をはきました。
康貞は短気だったが、兄思いの強い人だった上に、兄さんのお嫁さんもふびんに思う気持ちの強い人だったので、兄さんが戦死したあと、兄嫁さんと夫婦になっていました。
思慮深い戦国武将の康貞も、余りにひどいこのひと言に、かんにん袋の緒が切れて、一刀のもとに三介を切り殺しました。
人を刃で殺した罪で、芦田(松平)家はとりつぶしになり、けらいたちはつかえる主人を失って、路頭に迷うことになりました。その上、藤岡の人々はとのさまを失って、はなればなれになっていってしまったのです。
戦国の世に小さな地方の豪族が一国一城のとのさまになったのは、この地方では、真田氏と芦田氏の二人だけでありました。
芦田氏も不運にも僅かな間にほろんだのを悲しむように今も芦田城あとの松風が北風にひゅうちゅうと鳴っています。
この記事に関するお問い合わせ先
- みなさまのご意見をお聞かせください
-
ご意見ありがとうございました。
更新日:2023年03月31日